百聞は一見にしかず
東日本大震災企業人ボランティアに参加して
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レポート本文

はじめに
 今回のレポートは、自転車で走ってきたものではありません。が、もしご興味があればと思い、簡単な報告を作りました。 3月11日(金)、東日本は大地震と大津波という未曾有の災害に襲われました。6月1日(水)〜5日(日)、経団連企業ボランティアバス岩手第5クールに参加し、そこで何が起きたのか、そして6月を迎えた今、どこまで街は立ち直っているのかを、断片的ながら見て参りました。


一、ボランティアへの参加
 経団連主催のボランティアの募集が会社のイントラネットに掲載されたのは、最初はGWが明けてすぐのことでした。岩手・宮城・福島の被災地でそれぞれ5日間のボランティア活動を行うための人員募集でしたが、そのときには、すぐにも行きたい気持ちと不安な気持ちが半々でした。3月半ば(震災直後)にちょっとした手術をし、日常生活にはなんら影響は感じないものの、現地に行って具合でも悪くして周りに迷惑をかけては本末転倒……という気持ちがあり、手を挙げかねました。

 しかし、GW後に合気道の稽古にも少しずつ復帰してみると、傷はすっかりふさがっているし、手術前と比べ特に体力が落ちたようでもない。これは何とかなるな、と思っているうちに、岩手第5クールの募集が始まり、すぐに上司に「行ってもいいでしょうかね?!」と申し出ました。この上司はちょうど私が行きかねていた宮城の第4クールに志願して参加してきており、「いいよ!」と快諾でした。いかに私が職場で戦力になっていないかを物語る良いエピソードでもありますが……。


二、岩手へ
 上司が参加したクールまでは、東京からバスを仕立てていっていましたが、なぜか我々の第5クールからは現地集合・現地解散です。6月1日(水)の夕方、企業から参加の12人が盛岡の旅館に集まりました。うち女性は4人。一番若い男の子が20代、上は来年定年というおじさままで、平均すると30代後半〜40代と思われるわりあい落ち着いたメンバーです。業種は、メーカー、保険、金融、コンピュータと様々でした。このメンバーにNPOのコーディネーターや社会福祉協議会の人が加わり、MAX17名という人数は、前のクールの40名に比べると半分弱。NPOからの募集告知が出発直前になったというのが一因のようです。


三、活動一日目/陸前高田へ
 翌日6月2日(木)は、朝早くからバスに乗り込み、まずは陸前高田ボランティアセンター(以下VCと略称)へ。ボランティアグループは、まずここで地元から上がっているニーズとのマッチング作業を行います。

ねじ曲がった大船渡線の周りに瓦礫が散乱

 今回我々に与えられた仕事は、小友町の田んぼの片付け作業です。ぬかるんだ田んぼに、建材や食器、衣類、家庭用品、大きな風呂釜などありとあらゆるものが津波で打ち寄せられています。建材は釘が出て危険ですし、何があるかわからないので、上下レインスーツ、鉄のインソールの入った長靴、軍手とビニル手袋の二枚重ねに、ヘルメット・ゴーグル・マスクと完全武装(サウナ状態)で臨みます。

 まずは地元の民生委員のような方に作業の説明を受け、くれぐれも怪我のないように、と注意を受けました。

生き延びてほしい希望の一本松

 ほんの小さな面積の田んぼなのに、流れ着いた瓦礫の量は膨大で、しかもねじれて横倒しになった大船渡線が作業を阻みます。ちっとも終わりゃしない、というのが感想です。それでも、大きな重い風呂釜をみんなで力を合わせて転がして運んだり、近くのお宅の陶芸工房をきれいに片付けたりと、それなりの達成感はありました。

 帰りにバスの窓から、「希望の一本松」と言われる陸前高田の松原の名残が見えました。美しさで有名だった松原がみな津波でなぎ倒された中で、ただ一本残った松を復興のシンボルにしたいのですが、実際にはかなり塩害が進んで危険な状態だといいます。


四、 活動二日目/釜石へ

山積みされた「思い出の品々」

 翌日は釜石のVCへ。まず午前中は、避難所となっている体育館から別の場所に、会議用の長い机を運びます。作業はあっという間に終わってしまい、他にやることはありませんかと尋ねると、釜石のボランティアの方から、では床にブルーシートを敷いてくださいという依頼をいただきました。

 これも人数が多いので、ものの30分で終わりました。この場所には、被災地の泥の中から掘り出した「思い出の品」を陳列するのだということです。ここに持ち込む思い出の品は、近くの廃墟となった大型ドラッグストアの中に仮置きされていました。

畑の持ち主のおばあさんと

 午後は、唐丹というところの個人宅の畑の片付けです。ここは、鮭の遡上するきれいな川の畔にあるのですが、下流から流れてきた家が川をせき止め、行き場を失った水が瓦礫を押し流してきたのだそうです。こちらでは、倒されてしまった鹿よけの網を張り直してほしい、とおばあさんに頼まれたのですが、太い杭を打ち込んで網を張る作業は、素人の手には負えませんでした。

 ここの瓦礫の撤去作業もいつ果てるともなく、時間内にすっかり終わらせることはできなかったのですが、おばあさんは感謝の笑顔で見送ってくださいました。


五、活動三日目/二手に分かれて

重いリヤカーを引いての道路横断

 この日は陸前高田チーム・釜石チームに分かれ、それぞれの活動場所へ。私は釜石チームに入りました。釜石市役所の地下で水をかぶってしまった書類を運び出し、乾燥場所まで持っていく作業です。個人情報満載の書類を扱うので、まずは「誓約書」にサインをさせられました。

釜石市内の様子。瓦礫が山積み

 国立国会図書館や山形からの助っ人の文化財保護センター等の専門家チームに混ざり、生乾きでずっしりと重い書類をコンテナに入れ、リヤカーを引いて、道を挟んだところにある廃校となった中学校に運びます。そこで書類入りのコンテナをおろし、今度はこれをエレベータなしで五階まで運び上げるという、なかなかの重労働です。三日間の中では一番脚に堪えました。思わず、無口になる私たち……。この中学校の体育館は避難所として使われており、裏のかつてグランドだったようなところには、急ピッチで仮設住宅の建設が進められていました。

 そんな中、陸前高田チームは途方もなく広い田んぼで、他のグループと一緒に瓦礫拾いに悪戦苦闘していたとのことです。かなりの重労働だったらしく、特に男性陣は、旅館での打ち上げの時に、ビールを注ぐ手がぷるぷる震えて、グラスは泡だらけでした。


六、 ボランティア活動を終えて
 翌日は朝食を終えると解散で、帰るばかりです。

 今回、ボランティア活動というものに初めて参加して、とにかくやらなければならない作業が膨大であることに驚きました。それなりの人数で一日かかっても、畑の清掃一つ完全にはやり遂げられません。募金や、東北のものを買うなど、様々な支援の仕方があるとは思いますが、やはり物理的に人の手はまだまだ足りないということを実感しました。 NPOの人たちは、今後支援の熱が冷めて、ボランティアの数が急激に減ることを心配しています(実際、GW中と今とでは雲泥の差だといいます)。 

 自分も宮城出身ですが、東北の人間は忍耐強いとよく言われます。また、他の地域の人から見ると信じられないほど閉鎖的なところがあるのも事実です。その性格が災いして、みんな「助けて」とはなかなか言えません。ボランティアが入った当初は、まったくニーズが上がってこなくてどうしてよいか分からない状態があったそうです。そこを、梨畑の掃除などから始めてようやく信用されるようになり、ぽつぽつと依頼が増えてきたということでした。

開催を危ぶまれた「チャグチャグ馬コ」。ちゃんとやりました!

 ボランティアをやってみてもう一つ感じたことに、非常な効率の悪さがあります。これは各地のVCの実力にもよるらしいのですが、ニーズとグループのマッチングに時間がかかったり、また、作業内容・必要な道具などがきちんと伝えられなかったりで、何かと手戻りが多い。結果として、作業時間も減り、効率も悪くなります。今後長く支援を続けていこうと思ったら、もう少し体制作りも考えていかなければならないと思います。

 しかし、NPOの人たちに教わったことに、「作業をやり遂げられなくてもいいから、誰かが助けてくれているのだという姿を見せることが大事」というのがありました。これは私にとっては、目から鱗の落ちるような言葉でした。

 いろいろな支援の仕方があると思います。全員がボランティアで行って現地で汗を流すというのは、必ずしも現実的ではありません。ただ、観光でも何でもいいから東北の地に行って、その場所を見て、また、行った自分たちの姿を現地の人に見せることも意義のあることのように思えます。

 長文になりましたが、今回の岩手における体験をまとめてみました。

- N田 -


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