デンマーク、ドイツ北部(ハンザ同盟諸都市)、
ポーランド、ドイツ中部   

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レポート本文

N山(74歳) 2014.05.29 〜 06.17
走行距離 デンマーク  182 km
ドイツ    786 km(488+298)
ポーランド  405 km
計     1,373 km

ヨーロッパ独り占め
 吾輩はサイクルビィッチ・ワインスキーである。飛行機の中で飲むワインは堪えられない。自転車旅行の途上で飲むのも良い。
 年と共に一人時間が増す。それを如何に過ごすか。過去の話し、思い出話しに耽ってばかりでは充実感が無い。読書は視力の衰えと、のろまのせっかちの進行で、結末を急ぐあまりおちおち読んでいられない。横着にもなってくる。なかなか行動を起こさなくなる。何かをするのが億劫になる、特に新しい事には。

 昼食を外で取ってワインなどを少し嗜んだりして、多少の贅沢な気分を味わうとか、一人旅をするのも良いのではないだろうか。
 一人旅は孤独ではない。一人だから旅先で誰とでも話しをする。却っていろいろな人と交流することになる。人情に触れることもある。一人旅の想い出は時が経てば経つほど甘露になる。旅の写真、地図、各種ラベルなどを見ていると、情景だけでなく、声や音や香りも蘇ってくる。

 記憶力が大分落ちてきた。それに、いつも何かを忘れているような気がする。忘却恐怖症とか健忘症恐怖症とでも言うべきか。旅の携行品をポーチやリュックのどのポケットに入れたのか、いちいち書いておかないとなかなか見つけられない。
 旅に出るまでは億劫だが、出てしまうと身体にスイッチが入ったかのように快調に旅をする。いくつかの困難を乗り越えた後には爽快感に満たされる。

 「近道は道を失う。」とはニーチェの言葉だが、物理的にもなかなか迂回できない。どうしても直行しがちになる、Goal-oriented (直線的目的志向型)だ。できるだけ短いコースを取ろうとして、興味を惹かれる街を省いてしまう。cuorisity-driven(広域的多角的好奇心主導型)になれないでいる。
 情報過多は刺激が少なくなる。情報過少は機会損失になる虞がある。また、情報は、知ってるつもり、分かってるつもりにさせる。

 最近は少しいたずらもしている。大聖堂の入口に必ず乞食が屯している。大聖堂の、とはヨーロッパの至る所と言って過言ではないと思う。
 子どもが腹をすかせているとか、事故で手をもがれて仕事が出来ないとか言いながら、手を出して金をせびってくる。こちらも手を出して、金を呉れと胃の手術跡をみせてやると、すぐ仲間に知らせるので、以後一人も寄ってこない。腹を切っているのには相当びっくりしていた。
 スリがやたらと多い。封筒に広告紙を切って入れ、札を1枚入れておく。レストランや商店で支払う時封筒からやおら札を出す。紙だけ残った封筒をポケットにねじ込む。スリの目はそこに釘付けになって本丸の金には目が行かない。封筒を掏り取って逃げていく手合いもいる。
 ロマなど民族問題も当然あると思うが、なんといっても貧困と仕事がないことだろう。日本でも戦後しばらくは乞食が沢山いた。乞食の親分はなかなか羽振りが良かったものである。

 今回は自転車持ち込み料を取られるとの事。往150j、復150ユーロ。極めて心外。しかし幸いに自転車の部品と申告して免れた。大型荷物検査室の係員が女性でなかったことも幸いしたのかも。今回の狙いの一つは、世界三大がっかり(シンガポール:マーライオン、ブリュッセル:小便小僧、コペンハーゲン:人魚姫)巡りを完成させること。どうせがっかりすることが目に見えているから、見なくても良いようなものだが、やはり見ずにはいられない。ジョージ・ジェンセン・ザ・セカンドを訪ねることは大きな楽しみであったが、見つからなかった。ジョージ・ジェンセンは王侯貴族向けの銀製品、特に食器類の老舗のこと。戦後日本でも装飾品が有名になった。セカンドとはセコハン(中古)という意味である。
 吾輩もタイピンやカフスボタンなど小物を愛用していた。アンティークな豪華品を見て目の保養としたかったのだが、見つからなかったのが残念だ。

 コペンハーゲンから序でにスウェーデンのマルメまで20分ごとに出ている鉄道でオーレンス橋15.4qを渡って35分。ルンドにもと思ったが道が分かりにくいので断念。
 再度デンマークに戻り、コペンハーゲンから西進、南下。航路渡り鳥コースを取ってドイツに渡る。ハンザ同盟諸都市を回ってポーランドに入る。ワルシャワまで行きそこから岩塩の宮殿を見たいのだが、問題がある。ポーランド政府観光局からの情報では硬質ダンボールが入手難である事だ。菓子を日本へ送るときにもダンボールがなかなか手に入らないという。これでは自転車を袋詰めにしてダンボールで保護しようがない。

 ワルシャワからドイツへの鉄道便は7〜10時間かかるので気にくわない。已む無くサイクリングと鉄道を組み合わせることで、ポーランド西部を走ってドイツのドレスデンから磁器の町マイセンを経てライプチッヒに出、そこからflying backすることにした。鉄道の旅はポーランドが限界で、それより東は困難だ。

 渡り鳥コース:コペンハーゲンからハンブルグを結ぶ航路で交通幹線。ICEがそのまま乗り込む青函連絡船(新幹線は積み込めない)の兄貴分。ICE(Intercity-Express)とは、ドイツを中心に運行されているヨーロッパの高速列車のこと。勿論自転車も積み込める。中央ヨーロッパから北極やスカンジナビアへの渡り鳥の重要コースと重なる。デンマークのレズビューハウからドイツのプットガルデンまで30分間隔、所要時間45分。ユーロ払い。船内にはバー、レストラン、免税店、売店多数、外国航路だ。


 コペンハーゲンではアメリエンボー宮殿に自転車で入って、衛兵の交代式を間近に見ることができた。ニューハウン、フデリスク教会、ガンメルスランドなどを見学。 国境の町レズビューハウンのbarで一息入れ、気の好い女将と数人の酔客と意気投合。プットガルンヘ、ここにはまとまった集落がない。



 ドイツに入り、プットガルデンから少し南下してリューベック、ハンザ同盟の女王と言われるだけのことはある。当時の遺産で今も町が潤っている。観光以外に産業はない。同じく世界遺産のウィスマールは遠く及ばない。ホルステン門、マリア教会、聖ペトリ教会、市庁舎などを見学。リューベックから西へ、ハンザ同盟諸都市をたどる。途中ストラスブルグ、フランクフルトなど有名都市と同じ地名の町があるが、どれも寂しい田舎町だった。


   

 バルト海に面したポーランドSzcein(シュテェチン、英・独ではStettin シュテッティン、ポーランド第二の港湾都市)からアドリア海に面してスロベニアとの国境にあるイタリアのトリエステまで鉄のカーテンが降りているとチャーチルが1946年に言った。トリエステには2007年に走ったことがある。街並みはオーストリア風。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国領。ポーランドではホテルのある町が離れているので列車を2度使ってポズナン、ヴロツワナを訪れた。

 国境を渡ってドイツのゲルリッツに泊まるつもりでいたが、ポーランド通貨に余裕があったのと、日本でホテルの確認が出来なかったが、訊くとあるというので泊まることにした。ドイツ・ポーランドの国境をなしているナイセ川に面した全10室レストランホテル、木をたくさん使ったシックな部屋で、朝食付き4,200円相当、得した感じだ。隣町ゲルリッツ(独)の鐘の音が聞こえる。混んでいる店で両替。


 西進してバオチェン、久しぶりに民宿(zimmer frei)にでも泊まろうと交渉、朝食なしで40ユーロ、部屋に通されたところバスタオルなし。タオルを要求するとリネン代がかかるので2ユーロ追加ときた。タオルがあるのが当たり前だと言って口論になる、キャンセル。あとで亭主が女房のことを「いつもこうで困っている」と謝っていた。

 懐かしのドレスデンは市の外周部を通って中心部を遠望して過ぎた。期待して訪れたマイセンは寂れ果てていた。観光案内所でホテルを紹介してもらった。朝食付き42ユーロ、訪ねてもだれも居ないので案内所で呼び出してもらった。亭主曰く日本人は2人目で、前の人は大阪からシベリア経由のサイクリスト、3,000q走ったとのこと。自分は2年間空手をやったことがあり、日本が大好きだと言っていた。マイセンから予定のコースを変更してエルベ川に沿ってトールガオに出て泊まった。
オシャッツを回ってライプティッヒに到着。

  

  

 ライプティッヒの街を当てもなく自転車で走り回った。
street theatre、street performanceで声楽も盛んだ。楽器を持った人々が行き交い、街は音楽であふれていた。おりしもバッハフェストの真っ最中。マルクト広場で大勢の聴衆が集まり、昼頃バッハコンサート。午後はその録画を大型スクリーンで放送。夕方はジャズ風にアレンジしたバッハの演奏会。街の至る所にバッハ、メンデルゾーン、シューマン、ワグナー、ゲーテ、シラーなどの像が沢山ある。とにかく楽しく見どころ満載、再訪したい。


 最終日を日曜日に設定するのはよくない。買い物ができない。日曜日でもやっているのは教会、アイスクリーム屋(行列しているところもある)やレストランなどの飲食店くらいなものだ。

 駅で切符を買うのに時間がかかる。買った切符を見せながらいろいろな人に低3回、望むらくは5回程度ホームや発車時刻を確認する必要がある。特に大きな駅では必須。
食事を頼んで出てくるまで時間がかかる。すべてがスローモーだ。日本でせかせか暮らしてきた身はイライラさせられる。これが10日もすると当たり前になり、漸くいろいろなことに慣れて来た頃には帰り支度をしなければならない。

 道路は3か国とも良かったが、独では工事中が何か所もあり、大きく迂回させられたり、狭い砂利道を行かされたりした。道路標識は3か国とも少なかった。お蔭で何度も迷子になり、コース変更を余儀なくさせられた。独のキロ程表示は全くあてにならなかった。交差点を渡ると距離表示が増えたりした。
ポ−ランドの道は直線的で曲りは滅多にない。地形はドイツと似たり寄ったりだが、坂が長くてきつい(米仏型)。伊・スペイン・独では地形にそって道路を敷設するので距離は伸びるが楽である。
自転車道路はよく整備されている。特にデンマークのは分かり易さ、連続性、擦り付け箇所のスムーズさはピカ一であった。日本では平成13年7月まで、今後10年間に亘って1日1方向あたり大型車の通行量によりL、A、B、C、Dに区分して、それぞれの道路構造規格を決めていた。当然高規格の道路築造に優秀な技能者を当てていた。歩道や自転車道路には未熟練者が当たることが多く、仕上がりはよくない。


 地形は似たり寄ったり、とにかく広々している。北海道のモザイク模様の写真を見て喜んでいる向きも多いが、土地が細分化されそれぞれの土地に異なる作物が作られているからで、箱庭的だ。こちらの土地利用は思いもしない大区画で、相当高いところから空撮でもしなければモザイク模様には見えないと思う。右を見ても左を見ても、前を向いても後ろを振り返っても果てしなく大地が続く。

 英語はデンマークで一番通じた。デンマーク、ポーランドで独語はよく使われていた。
ヨーロッパ人はなぜ無意味に腹を突き出し大きな腰を無様に振って歩くのだろう?不見識だと思う。

 ポーランドやドイツの北部の夜は冷え込むと見えて、テラス席の椅子には座布団が敷かれている。ポーランド人は親切で意外なことに明るく陽気だった。ポーランドには馬車、羊飼い、もく拾いがいない。車はきれいに使っている。鉄のカーテンというイメージは全く感じなかった。新築あるいは新築中の建物があちこちで見られる。みすぼらしい民家やアパートもまだ残っているが、急速に変わって来ていると感じた。共産主義から転向した国の中では一番成功しているように思う。昔の映画に出てくるような情緒ある街並みが各所に残されている。

 ポーランドとドイツの夕食は高級レストランでも飲み物と1プレート、それ以上の注文は取ろうとしない。
 ドイツでのサイクリングツアーのイメージが変わった。ワンダーフォーゲルの国らしく何でも整っていて安心。いわば大庭園の中を散歩しているようなものだと思っていたが、今回のコース今までと全く違って、冒険的で野性味に富んだものだった。
ドイツ:ハムのサイコロ切り煮凝り、ベルリーナー・ヴァイセという赤や緑のビール(4%、泡立てた生クリームがトッピングされ、ストローで飲む)は逸品。

ライプティッヒ〜フランクフルト便が2時間遅れ、フランクフルト〜羽田の予定便に乗り遅れ。無料で別便を手配してくれた。度重なるトラブルを掻い潜って無事帰国、やれやれ。

日本に帰ってくると女性がラクダかキリンのように長い睫毛を付け、ほとんどの人が電車の中でスマホをいじくり、騒音と外国語が氾濫している…。


−以上−


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