最終更新日: 2006年1月9日
YMCCの夜明け頃
鈴木
 みなさん初めまして。または大変ご無沙汰しておりました。初代会長ということになっております鈴木と

申します。

 数日前、島田さんから20数年ぶりにお電話をいただきました。YMCCが30周年を迎えるとのこと。

大変な歴史が刻まれたものです。2000年6月3日,20年を越えてサイクルセンターシマダの扉をくぐり、

月例会へ参加させていただきました。

 嬉しいことに現会長の渡辺さんから何か寄稿をとのことで、喜んで書かせていただきます。私が今で

きることはYMCCが活動を始めた頃の事をお話しすることでしょう。


 ”島田社長に文句を付ける”

 私がシマダの扉を最初にくぐったのは1973年の5月のことです。

山口のべニックス(安い方ですよ)を買いにきたことで島田さんとのおつきあいが始まります。近くにべニ

ックスを置いてある店が無く、雑誌の広告を見てやってきました。山(峠)をやりたいからとオーバーサイ

ズのタイヤを最初から着けていただいたのでした。ところが島田さんは当時結構いい加減で(今もか?)

1−3/8のリムに1−1/2のタイヤを無理矢理ねじ込んでくれたのです。

 家までの10Kmを走るうちにタイヤがねじれているのに気がつきました。とって返して「タイヤを替えろ」

「それでいいんだ」の言い合いになってしまったのに,不思議なことに私はシマダにいりぴたってしまった

のでした。


“気がつきましたか?”

おかしいでしょう?私がお世話になってから27年なのにYMCCが30周年?初代会長より歴史が長いの?

しかし,自分自身の記録をみると確かに会長ということになっており,初会合は1974年の1月に開いてい

ます。そこから2年ほど活動していた記録が残っています。第18回(広島)・第19回(福島)の全国サイ

クリングラリー等が懐かしい思い出です。私が通っていた学校の同好会と共催で伊豆の天域峠へ出

かけ、これが“恐怖の八丁池事件”を引き起こしますが,これはもしできれば別の機会に。

けれど今のように月例会がしっかり開かれるようなことがあまりなく,第2回の会合は参加者3人などと

いう悲惨な記録が残っていました。その割にみんなであちらこちらへと出かけていたのでした。


“毎日が定例会”

 とにかく平日でもシマダヘ行けば誰かが居る。毎日が定例会のようなものでした。たぶん私が係わって

発足したYMCCの初代メンバーは10人にも満たないのですが,その中で私が一番浅い歴史しかな

かったのだと思うのです。そうです,私はYMCC初代“ユーザー会長”なのです。

実は私は会長をやったという自覚さえ無くなっていました。実質的には最初から第2代の棚橋さんが

会長で、私はついていっただけのような気がしています。しっかりした活動は私が通わなくなってから

棚橋さんが作り上げたのだと島田さんに教えられました。

もちろん,いつでも我々YMCCの拠り所は島田さんでありそれは今も変わりませんよね。だからこそ

30年もの歴史を刻んできたのでしょう。記録を見ると私も何らかのクラブとしての活動は形作ろうと

思っていたふしはあるのですが,実は“毎日が定例会”のくちで“シマダにいればご機嫌”な日々で

した。それで島田さんが会長ということにしてくれたのでしょうね。

 いったい私は何を残したのでしょうか?私の中には何ものにも代え難い思い出がたくさんあると

いうのに・・・。

いったい私は何を残し・・・あっ!島田さんに借金が〜!!v(^^;;