2010年03月 桶狭間から本能寺へ
(下天の内を比ぶれば夢幻の如くなり)
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レポート本文

Sおおご

第一日:桶狭間

その頃になると巷の道路工事がやたらと増え人々が慌ただしく行き来する、世間では「年度末」と呼ばれる時期の週末にこのツーリングは催行されました。サラリーマンのサイクリング仲間からは「年度末でバタバタしている身からすると大変うらやましいです」と言われ、ちょっと優越感が。

写真 1 輪行の図(O湖)

早朝の名鉄名古屋本線のとある駅に降り立ち、輪行袋を解いて愛機を取り出していると改札口から大勢の人々が出ていらっしゃいます。考え事でもあるのか、どなたも何か決意を秘めたような難しそうな顔つきでせかせかと歩いておられます。信号の切れ目に停まるでもなく上の空で歩く人の流れを横目で眺めつつわたしは思いました。名古屋の人は忙しいのだなあ、土曜日でも年度末だから休日出勤なのか。

多くが新聞を持ち、なかには筆記用具を耳に挟んだりして…、振り返って見上げた駅名は「中京競馬場前」そうか今日は競馬の開催日だったのか。

写真 2 N沼氏
写真 3 S石氏(中央)
写真 4 小野寺機

集合時間のだいぶ前からO寺さんは到着していて、愛車の組立て点検に余念がありません。

今回はフロントバッグ、サドルバッグ仕様のランドナーです。

大きなサイズのフレームに見合ったかのように、ボトルではなくポリタンクが特性ケージに据えられておりました。

サドルバッグとその下部に置かれた輪行袋は、左右のカンティブレーキ台座とシートステイブリッジに結合された頑丈なパイプキャリアに支えられ、まるで一体の構造物のように固定されているのが特徴的です。

彼はこのところツーリングの度に違う自転車に乗車されていらされますが、一体どれほど所有されておられるのか、当クラブ自転車所持数の第一人者ですからね。 ほどなくして全員集合、今回は男性3名、女性1名の参加で乗機はランドナー2機、クロスバイク2機の内訳でした。

今回ツーリングの主題は、名古屋京都間に於いて旧街道を多用して走ること。副題は「信長の一生」です。基幹となる街道は旧東海道、中山道によります。

当時よりの面影を残す旧街道の街並みを行き、往時の賑わいを彷彿させる旅をいたします。また尾張、美濃、丹波地方に残る信長の足跡を辿り、中世日本史のおさらいをさせていただきます。

快晴で微風のなか駅頭を出発しますとすぐ「桶狭間古戦場」、この地で織田信長は圧倒的多数の軍勢を誇った今川義元を奇襲により討ち倒し、その後の天下布武への道筋をつけた歴史的な古戦場です。桶狭間というのは広義の土地でして、実際に激戦地となったのはそのなかの「田楽狭間」とよばれる窪地で山を越えた谷間の台地に在るそうです。現在周辺は開発されて大きく変貌しておりますが、確かに義元戦死の塚の在る場所にはそれら特徴のある地形を見取ることができました。

写真 5 桶狭間駐機の図

O寺さんのハンドル上に装着されたナビ装置に導かれ、縦列になった編隊は旧東海道を縫うように市街地を走り抜けましてあっという間に名古屋市郊外に出てしまいました。ありきたりに国道を行ったらもっと近代的な空間を走っているはずですが、この間時代劇に見る町並み、すなわち狭い路の両筋に並ぶ板塀囲いの町家、間口を広く取って来店客を待つ商家、屋根の載った大型で古風な門構えの家屋敷などが断続的に続き、あたかも時空旅行をしたかのような錯覚を覚えました。

S石さんが後ブレーキの片効きを申し立てられましたので、調整してみたところ特段の問題なく直りました。カンティ型台座のこのシマノ製ブレーキ、片効きには片方の台座ごとにスプリングの張力調整ができるので便利です。一昔前のマファックあたりとは比較にならないくらい片効き調整をし易いですね。

心配する彼女にこのときわたしは「いやあ、ツーリングではよくあるんですよ。昔は皆ランドナーだったからどえりゃー部品点数多いでしょ、走りながらしょっちゅう修理とか調整してたですもん。このくらいは気にしない気にしない」とかいって笑っておりました。

「尾張名古屋は城でもつ」と謡われる秀吉の名古屋城、金の鯱鉾は時間の関係で省略です。それに今回のサブテーマとは僅かに時空を異にしますし。

名古屋市郊外の西北部に出て、次に向かったのが清州城。当時の信長の居城で桶狭間にはここから出陣しております。折しも満開の桜の時季で、公園となった城址では花見の多くの人出で賑わっておりました。露店のワンカップ酒がじつに美味そうに並べられていましたっけ。

S石さんはここで離脱して名古屋へ向けてお帰りになることに。

写真 6 清州城にて(向かって左よりS石氏、O湖、N沼氏)

その次が墨俣城。美濃攻めに際し信長配下の藤吉郎が一夜にして築城したと伝えられています

写真 7 O寺氏 墨俣城にて

長良川西岸のこの地にはコンクリート製の立派な天守閣を持つ城郭がありました。わたしのイメージでは、城というよりは砦くらいの規模かと思っていましたが立派な掘りを持つ城塞として復元されておりました。

木曽川、長良川、揖斐川と続けて大きな河川を渡ったので、この地方は水の豊かな土地柄なのでしょう。もちろん米の石高も大きく肥沃な土地かと思われます。

薄暮走行となり大垣駅に到着しました。

予定ではこの地で宿泊です。公衆電話ボックスからタウンページを繰りつつビジネスホテルなどに探りを入れました。しかし空いている宿がまったくありません。

大通りをジャージ姿の女子高生が何群も歩いているのを察するとなんだかお祭りのようでもあります。電話で話をしていても埒が明きません。当日キャンセルでも無いかと駅前でいちばん大きそうなホテルのフロントで尋ねてみましたところ、ご当地ではなにやら大きなスポーツ競技会があるそうだとのことで。

チャリツーリングは大人の遊びですからね、これくらいでめげることはありません。

タウンページを再び繰り、逆に郊外の方から電話を入れていくと数軒目にして「静里旅館」さんに承諾されました。

この静里旅館に向かう途中での事ですが。すっかり暮れた県道でダイナモランプを点灯して走っておりました。

タイヤと接触して回転する、直流発電器のコイルの発する静雑音が好きなんですよ。

前照灯もそうですが、ほのかに明るく点るテールランプも良いですね、心が和みます。

たとえ単独行でもこの静雑音と照度があれば夜道の寂しさを慰めてくれますし。また速度によって明るくなったり薄暗くなったり、まるで自転車が生き物のように思えたりもします。

小さな川を渡る高橋という橋梁上でのこと。カランという乾いた落下音が。

振り返ると真っ赤な反射光を放ちつつ、なにやら小物体が道路中央に転がっていきました。

一体何かと判断に迷いましたが、明らかに自分の機体から放出された物です。

一瞬遅れて急停車し、後戻りしましたところテールランプのプラ製赤色カバーではありませんか。

これが車道に転がり落ち、数台の車が後方より迫ってきております。歩道に愛機を放るようにして横倒しにし、車道に跳び出しました。

間一髪の差で回収に成功、あと少しで取り返しのつかないことになるところでした。もちろんこのテールランプは絶版品ですから、破片を集めてモザイク様に接着しない限り復元不能です。

「ランドナーは部品点数の多さゆえに故障が多いから」と清州にて笑っていた自分が恥ずかしい、確かにこの赤色カバーは30年近く触ってないです。台座に留める2mm径くらいのボルト1本の点検を怠っておりました。

写真 8 静里旅館女将、若旦那と共に

「静里旅館」の所在は大垣駅より養老線で二つ目の駅「西大垣駅」の西方にあり、この駅より直線距離にして600mくらい関ヶ原方面に寄った県道31号線沿いです。家族経営のこの旅館、若旦那も自転車を趣味にされておられて、ありがたいことに我々の機体を営業終了後の店舗に収容してくださいました。サイクリストが宿舎探しでいちばん気を遣うのがこの収容場所です。細やかな心配り、サービス精神におおいに感謝感動いたしました。

写真 9 静里旅館 臨時格納庫

信長桶狭間出陣の折り、戦勝祈願に立ち寄ったとされる熱田神宮。このとき一羽の白鷺が神殿より羽ばたき発ち、信長軍勢は戦運を得たとおおいに湧き立ったのだとか。実はこれは宮司が気を利かせ、あらかじめ捕らえておいた鷺を信長参拝の際に放したのだという一説があります。白鷺の件以外にも、藤吉郎の懐草履のような逸話のある彼の地の人々は、当時からサービス精神旺盛、気配りに秀でた気質だったのでしょうね。

第二日:天下布武

翌日午前中の目標は関ヶ原。

O寺さんとナビ先導により粛々と旧街道を行きます。時系列ではわずかに後世となりますが、やはり戦国時代のひとつの節目となる合戦場です。関ヶ原古戦場を縦横に巡る先々に武将の陣跡や戦役者の塚が在り、往時の激戦を偲びました。

道はいつの間にか旧中山道になり山地を下って琵琶湖畔へ。

写真10 近江路記念写真(テールランプ装着前)
写真 11 近江路記念写真(テールランプ装着中)
写真 12 近江路記念写真(テールランプ装着済み)

「ひこにゃん」の住むという彦根城下で昼の兵糧を食していると、一天俄かに掻き曇り横殴りの雨が…。猫は水が嫌い、「濡れるのは嫌だなあ」ひこにゃんの気持ちがよくわかる。

それにタイヤがまだ新しいので、ブレーキシューの削れ滓を溶かした雨水がタイヤのアメサイドを汚すのを見たくないし。暫くの間、と言っても午後遅くまで彦根駅の待合室で日和見をしておりました。

雨脚の弱まった頃を見計らって出発、この日の宿泊予定地はずっと遠方です。

しかし途中で立ち寄った安土城址を長らく見物していてさらに時間を費消してしまいました。ま、この犯人はわたしですけど。それで本日もまた黄昏の道を残業して行くことに。

安土駅前あたりで泊まりかなとも思いましたが、巧みなO寺さんの誘導により気が付いたらいつの間に近江八幡駅前に立っておりました。さすがに今日はここまでかな。

「安土城」では、到着しても初めは城址とは解らず古墳時代の遺跡かと思いました。正面の石積みが巨大な建造物に見えたのです。じつは天守跡や本丸跡へと登る石段だったのですけれどね。

この石段の一段一段の高いこと、登り口あたりではゆうに30cmは越えるでしょう。数段登ると脚が重くなって辛い、ましてや駆け上がるなんてとてもじゃあないけど…。当時の武士って体格は良くとも身長や脚長はさほどではなかったかと思うのですよ。この石段は敵勢に攻め込まれた場合を想定して一種の「武者返し」としての機能を持たされているのでしょうか。

驚いたことにこの石段のなかには路傍の石地蔵やら墓石が混じっているのです。神仏を畏れない信長らしい造作ですね。しかしここを上がる人はさすがに踏まずに避けていったのでしょう、踏まれて磨滅しているようには見えませんでしたから。

この登り口あたりには羽柴秀吉とか前田利家らの重臣の邸跡があり、台所やら居間やら客間跡があってなんとなく親しみを持ちました。当時は彼らも毎朝この石段を上がって登城したのでしょうね。

写真 13 安土城石段(向かって左よりO寺氏、N沼氏)

安土城は標高199mの安土山に築城された平山城です。五層七階の天守を持つ豪壮な城だったそうで、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスも感嘆したと書き記されております。信長の標榜した「武家政権によって天下を支配する」こと、つまり武力によって天下を取るという野望を具体的な形にするとこのような建築になるのでしょうか。現在は干拓により周囲は陸地となっておりますが、それでも西北方の間近に琵琶湖畔を眺望することができます。天守閣の在ったといわれる小高い場所までようやく登り詰め、内湖となった「西の湖」越しに眺めた琵琶湖畔には感慨無量でした。我々は在りし日の信長がこの場所より得たのと同じ眺望をしているのでしょうから。

【最終日:人間五十年】

前夜三名で催した「茶の湯」の後遺症か少々気怠い出発となりました。

なんといってもサイクリストのたしなみですからね。色、香りを愛で喉越しを愉しむ。現代のサイクリストの「茶」は冷たくて注ぐと微妙に泡が立ち、飲むほどに昂揚してよくしゃべるようになる、世間ではたしかビールと呼ばれているものだとか…。

琵琶湖畔を暫く行きまして琵琶湖大橋を渡り、西岸を約10 km走りますと比叡山坂本です。

寺社勢力や一向宗徒と鋭く対立した信長は、この比叡山の全山を焼き払い殺戮の限りを尽くしたので今でも仏敵と呼ばれているとか。南無阿弥陀仏…。

写真 14 JR比叡山坂本駅前にて(向かって左よりO湖、O寺氏)
写真 15 比叡山坂本参道の喫茶店にて

初日から薄々気になっていたのですけれど、どうもペースが速い。

こちらはランドナーですからね、想定する巡航速度は時速24kmくらい。荷物も前後に積んでいて重量も風圧による前面抵抗もありますし。終始O寺さんの先導で進んでおりますが、わたしはついて行くのがやっとなのです。あるとき平坦路で編隊から千切れそうになったとき、ハンドルに装着した速度計は時速35kmを記録しておりました。O寺さんはその辺のロードレーサーより速く走っているわけです。一度に300kmをこなす「ブルベ」の選手ですからね、搭載するエンジンの出力が違うというか。

編隊では二番機の位置となるN沼さんはぴったりと連なって追走していきます。後日N沼さんに伺ったところ自主トレーニングをされているとのことでした。ストレッチから始まり腹筋、ふくらはぎ、ヒンズースクワットなど筋力の養成に余念がないそうです。

これでは日頃無為に過ごしているわたしが追いつけないのも無理ありませんな…。

大津より再び旧街道を行き、山科より入洛いたしました。この山越えがたいそう楽しませてくれまして、舗装してこそありますが車も入れないような狭く急峻な路なのですよ。久し振りにチェンを前28Tのインナーギヤに落とし、今回ツーリングの有終の美を飾るに相応しい旧道の旅を堪能いたしました。

三条大橋のたもとに立ち、最終目的地「本能寺」の方向を定めたいのですが凄い人出でよく解りません。この地でも都桜が満開で多くの人が行き交かっております。さすが京都は国際観光都市です、外国人も多く見かけました。宣教師フロイスもこのようにして京の桜を見たのかしらね。

O寺さんの勘とナビを頼りにようやく本能寺跡を見つけていただきました。信長終焉の地です。マンションのある路地の一角に「此の附近 本能寺跡」と子供の背丈くらいの碑がありました。瞼を閉じると夜半に軍馬のいななき、兵士の勝鬨の声、炎と火の粉のはぜる音などがありありと浮かび上がります。

天下統一を目前にしての挫折…、本人もこのようなかたちで一生を終わるとは思ってもみなかったでしょうけれど。合掌…。

Sおおご

2010年03月
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